■ 批評する者へ
執筆 2009/03/26



皆さんが物を買うとき…

あるいは自分がプレイ・観賞した作品についての
他人の意見を知りたいと思ったとき…

ネット上の感想や批評を見に行くと思います。



インターネットによって誰でも手軽に意見発信できるようになった昨今ですが、
「誰でも」という手軽さは、反面、必ず玉石混交をうみます。

事実、「これのどこが批評なのか?」としか思えない捨てテキスト
意見としてネット世界をただよっているのを幾度となく見てきました。



「批評や感想は、人それぞれ。
それに良し悪しを求めるのは筋違い」

という反論が出そうですが、『それは大間違い』と断言します。



まず、批評をする人間には
『本質を見る目』が要求されます。

これは要するに「幹を見る目」で、枝葉にばかり目がいったり、
制作者の演出に踊らされて幹が簡単に見えなくなるような人間は、
安易に批評すべきではないと考えます。



また、ネット上に発信した以上、それは
『不特定多数の目にふれる可能性への責任』
を負うことでもあります。

それがイヤなら、発信しなければ良いのです。
自分のパソコンの中に置いておいて、
自分だけで楽しめばいいだけの事。

発信を、自己顕示欲を解消するオナニー
としか考えられない人間
の批評と、
それ以外の方々の批評には、間違いなく貴賎があり、
前者があふれる社会に、真に価値ある物作りは生まれません。

それは、物作りや加工でしか生き残れない日本国にとって、
将来的な致命となると断言します。

(正直、すでにかなりヤバい所まで来ていると感じています)



以下に、代表的な『勘違い批評』のケースを並べてみました。
ご自分で批評をする際に、
頭の片隅で思い出してもらえれば、と思います。

僕自身も一批評者として、
自戒の意味をこめて書いたものです。





『神・ゴミ 批評』


自分の好みに合ったり、自分に都合の良い内容だと
気に入らなければ、クソ・ゴミ

10段階評価では、10しか付けたことが無い。


他者を敵と味方の2種類にしか分けられないのは、
幼児性の強い人間の特徴ですが、
こういった批評をする人間もきっと幼児性が強いのでしょう。

批評としては、ほぼ無価値です。





『他者を意識しすぎな批評』


「皆が誉めている作品は、最初から否定する気マンマンで挑む」

「皆がケナしている作品の良いところを見つけると、優越感を感じる」


自己顕示欲が強すぎる人間が批評をすると、
こうした視点のせいで歪んだ批評をしてしまいがちです。


批評をする人間は、以下の文を心にとどめて、
自分の客観性を常に振り返ってほしい。

『世界の全ての人がそれを「嫌いだ」と叫んでも、あなたは「好きだ」と言えますか?』

『世界の全ての人がそれを「好きだ」と叫んでも、あなたは「好きだ」と言えますか?』






『作品に見慣れてしまった批評』


よく、「最初は難点だと思っていたのですが、
長いこと見ていたら、見慣れて気にならなくなりました」

などと、平然と批評している人がいます。

中には、
「私のように長時間付き合えば良さが見えるのです。
短い時間で軽々しく批評してもらいたくないですね〜」

などと鼻息荒く他者を批難している人まで…


心理学をかじったことのある方なら、これが
『見慣れると、親近感からプラス評価してしまいがちになる』
という錯誤であることをご存知だと思うのですが、
上記はそうした無知によって生まれた歪んだ批評の1例です。



テレビでくどいほど同一商品のCMを
流してくる企業がいますが、これもそうした
親近感を視聴者に植え付けようという魂胆
が強く働いているからです。

事前に知っていないと、
コロリと相手にだまされて親近感を抱かされてしまうので、
注意したほうが良いでしょう。
(芸能人や政治家、カルト教団などは、よくこの手を使いますね)



ジックリと作品と付き合って、よく理解する事は大切です。

しかし一方で、最初の頃に自分が作品に対して感じた
ファーストインプレッションも常に忘れない。
より客観的な批評には、そうした2方向からの視点が不可欠なのです。

自信が無ければ、随時メモを取るようにしましょう。
後から時系列で見直せば、
自分の感想がどのように変化したかも思い出しやすいはずです。





『クリアしたら良い思い出』(ゲーム系)


「答えがわかる前」と、「分かった後」…

「クリアする前」と、「クリアした後」…



この前後で、作品の印象が変わってしまう気持ちは、たしかに分かります。
クリアできれば、うれしいのは誰でも当たり前ですね。

ただ、そのせいで
『クリアする前の、プレイ中の気持ち』を忘れてしまっては、
客観的な批評は生まれません。

クリアした途端に、プレイ中の苦しみが、
全て「他人事」「あれも良い思い出」
なってしまうような人間に、本質を見抜けると思いますか?


物事は常に、過程と結果です。

結果だけの視点で書かれた批評は、片手落ちなのです。





『俺は解けるもんね』(ゲーム系)


「クソゲー」「駄目ゲー」関連の批評で必ず目にするのが、
『でも、俺は解けるもんね』という感想。

他人ができないことが出来る、というので自慢したい気持ちは分かりますが、
それが「つまらないから」「わけが分からないから」という理由で
大方の人間が捨てたゲームだと、ちょっと事情が変わってきます。



この手の「俺は解けるもんね」型の人間は、マイナー嗜好が多い。

マイナーゲームを愛しているのではなく、マイナーなら
『他人と競合する可能性が低く、中途半端な実力でも上位を狙える』
という、さもしいプライドが根底にあると見ます。

この手の人間が末期症状になると、
『メジャーな作品には断じてさわらなく』なります。
これでは客観的な批評など望めるはずもありません。





『知識自慢』


「この部分は、1996年の○○のパロディであり…」だの、
「この制作者には、○○氏の作品『○○』を読んでご勉強願いたい」だの、
2〜3箇所ならまだしも、批評の半分以上がこんな調子だとウンザリさせられます。

はいはい、君は知識があるんだね。 えらいね。
で、結局、この作品について君はどう思ったのよ?

と問いたくなる。


こうした人間の原動力は、言うまでもなく、
『自分を、知識のある立派な人間だと思ってほしい』
というベタベタの自己顕示欲です。

批評は二の次… というか、
そもそも批評になっていないケースが大半。


ちなみにこういう輩は、やたらと文章をキドる傾向も強いです。
「しかるに」とか、「〜であろう」とか…
英単語漢字の列挙もしますね(笑)

平気で使い方を間違っていたりもするので、不愉快ですが爆笑です。

新聞の投稿欄で、ありふれた正論を並べた文章で
自分に酔っているお年寄り
なども、
自己顕示欲をコントロールできていない点で同種と言えそうです。





『出費への肯定』


例えばあなたが、数ヶ月前から発売を楽しみにしていた
5000円のゲームソフトを買ったとします。

帰宅して遊んでみたところ… クソゲーでした。

友人やネットなどで評価を聞いてみても、多少の違いはあれど
「駄目なゲーム」ということで大方の評価は定まっているようです。



こういう時、慣れている人間は、
「あ〜、くそー! 失敗した!」と怒りますが、
同時に自分がクソゲーを買ってしまったことも客観視して認めています。

では、そういう事態に慣れていない人間はどうするか?



そのゲームの「良いところ」を探そうとする…

無理矢理にでも探そうとする…

それが見つかるまで、
なかばヤケクソになってプレイする。




そして、小ーさなオリジナリティや良質な点を見つけると、
それを脳内で何10倍にも増幅させて、こう叫ぶ。

『皆はクソだクソだというけれど、遊びこめば良い点が見えてくる!
評価はもっと遊びこんでからするべきだと思うね!wwwwwww』




「そのゲームを買うまでの、ワクワクした時間」
「そのゲームを買うために費やした、大切な資金」

それらに裏切られたという現実から目をそらそうとした時、
こうしたゆがんだ批評が生まれてしまいます。


この手の評価をしてしまう人間に学生(高校生以下)が多いのは、
批評慣れしていない点ももちろんありますが、
「限られたお小づかいの中でゲームを買っている」ことが大きいです。

社会に出てみれば分かると思いますが、
大人の5000円と学生の5000円は、感覚的価値が5〜10倍ぐらい違う。
収入のケタが、根本的に異なるからです。

だから、大人なら怒り狂うだけで終わる失敗も、
同じ金額の失敗を学生がやると、熱が出るぐらいショックが大きい…

(あなたが社会人なら、ゲーム1本3万円ぐらいする世界を考えてみてほしい。
3万払ったゲームがクソゲーだったら、多分あなたは熱出して寝込むのでは?
大人になると忘れがちですが、それが子供たちの暮らす価値世界なのです。)




だから学生は、自分の買ったゲームをトコトン擁護して批評しがちですし、
そのゲームに悪評を下す評者を
(批評の客観性を度外視して)猛烈に敵視してしまう…


でも、自己弁護を前提とした批評は、
言うまでもなく批評でもなんでもありません。

それは単なる自分への言い訳だと、気づくべきです。

良し悪しの目利きに失敗した品物にしがみついて
ムリヤリ良いところを探したところで、
次に待つのは「同じ失敗」でしかない事実に、気づくべきです。

今回の失敗を反省して、
「なぜ目利きを失敗したか?」を考える者にだけ、
明日の「より良い作品との出会い」があることを決して忘れないでほしい。





★ちなみに、こうした失敗を人生レベルでやってしまっているのが、
カルト教団の信者です。


彼らも心の片隅では
「おかしい…」「変だ…」と気づくときもあるのです。

でも、それを認めるという事は、
『自分の貴重な人生の時間を、
今までドブに捨ててしまっていた現実』

と向き合わなければならない。

だから、「もう戻る事ができない!」
必死に思い込もうとするわけです。


火事を消し止めるのに遅すぎることは無いと思うのですが、
それに気がつける冷静さがすでに彼らに無い、という事でしょうか?

もっとも、信者が冷静にならないように、
教団側もあらゆるコントロールを施している
んだけどね…







本当に良い批評は、
作り手への健全な意見となり、ユーザーの目を肥えさせ、
世の中の作品の質を向上させる確かなキッカケとなります。


商業誌では広告目的の批評しか見れない昨今ですから、
損得関係のほとんどないネット世界でしか
本物の意見にふれられない現代…


ネットで批評する者は、
ネットという素晴らしいメディアを提供された幸せを忘れずに、
素晴らしい批評を生みつづけてほしい、と願います。

僕も、がんばります。





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